「立命館弓道部語録」 : 2000年1月20日更新


 


「立命館弓道部語録」 (著作年代順) Index

  1. 「立大弓道部を回顧して」 昭和6年度卒 師範 前田仲作/「立命館大学弓道部部報」/昭和17年
  2. 「あるたはごと」 昭和19年度卒 米島欣作/「立命館大学弓道部部報」/昭和17年
  3. 「弓道と私」/昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」創刊号/昭和44年
  4. 「弦声鳴和平而浩然養素」/末川博名誉総長/「鳴弦」第2号/昭和45年
  5. 「弓と精神」/昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」第3号/昭和46年
  6. 「My Life」 昭和55年度卒 伊藤正徳/「鳴弦」第11号/昭和54年
  7. 「手の内の形と働き、真の会と伸合いについて」 昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」第14号/昭和57年
  8. 「立命館弓道部、なんやかや」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第16号/昭和60年
  9. 「部章(バッジ)作成始末記」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第23号/平成3年
  10. 「弓矢取る身」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第26号/平成6年
  11. 「終はりなき弓の道」 監督 範士八段 中川慎之/「鳴弦」第30号/平成10年
  12. 「原点に帰ろう」 /「鳴弦」第31号/平成11年


「立大弓道部を回顧して」 昭和6年度卒 師範 前田仲作/「立命館大学弓道部部報」/昭和17年

 月日の流れは誠に矢の如く我が立大弓道部の創設は早や十三年の昔となる。弓道部設立の為め特に尽力致されし当時の学長田島錦治博士の道場開きの式典当日先生の揮毫に成る平正審固の大額は今尚道場正面に掲げられ、之を通して部員は連続的に指導せられつつあり、又同時先生の訓話に我が国は遠く神代の時代より弓矢の道を以て統治せられ之が他国民に冠絶する大和魂となりたるものである。部員たるもの斯道の精神の涵養に奮励すべしとの訓は今尚私の耳底に強く残りある所である。又当時の弓道部長として直接道場の創設者である跡部定治郎博士は射に元気ある事を常に要求せられたものである。今やこの両先生共に物故せられしも其遺訓は立大弓道部において月日の経過と共に燦然として益々其光彩を放ちつつあり、之に加ふるに先輩諸賢の部員当時において発揮せられたる精神上及び射術上の美風は次ぎつぎの部員に依り継承練磨せられ、年と共に進歩の跡を明らかに見るを得るは道場開設の当初より今日迄の経過を常に目撃し来りたる私として先輩諸賢に対し感謝の念禁ずる能はざると共に又喜びに堪へぬ次第である。今や現部員は諸先輩の遺訓に基き正しき射型及び其的中の練習と弓道を通じて特に禮徳の向上敢闘精神の振起、熱と努力心の発揮、体位の向上に全員和気藹藹裡に協力一致精進しつつある状態である。先輩諸賢には今や我国曠古の赫赫たる大東亜戦の真只中第一線の勇士として戦場にあると否とを問はず聖戦完遂の為め敢闘せられんことを祈念すると共に斯道奨励の為め部に対し時折の御通信と御来場を御願して止まぬ次第である。
 (以下略)



「あるたはごと」 昭和19年度卒 米島欣作/「立命館大学弓道部部報」/昭和17年
 
 光輝ある伝統に輝く我が弓道部の末席を汚してより早や三年の年月は過ぎた。部生活の如何なるものか、少しも知らぬ小生、唯生活といふものがして見たさに瓢然として道場に足を運ぶ。「アノー、入れて頂きたいのですが・・・・・」恐る恐る道場の扉を開ければ忽然として現はれたる羽織袴の御大人、「マーアガレヤ、エンリョセンデエエ」と云ひ残して奥へ去る。今にして思えばその御大人がそれ以来大層御世話になった江田さんだった。弱い心ゾーを無理に強くして始めて道場へ入る。柱にもたれて只思索にふける美少年一人、小生チョコンとその横へ坐る。美少年やおら煙草を取り出し口へ運ぶ。紫煙小生が眼前をかすむ。「オヤ、コヤツ、タバコヲスウゾ!!」と驚いた小生、今にして思へば彼の美少年は鷹取であった。「キャン」「ポン」変な音に顔をあげる。今や弓を満月に引きしぼり練習に余念のない若人の群、天は的に中るもの、とんだ所へ空中滑走するもの等々。「アリャ、コリヤオモシロイゾ」と独り悦に入ったのも束の間、直ぐ的に向って射らしてくれるのかと思ったら変な巻束の前に立たされる。巻藁と云うのだそうだ。
 彼の美少年始め小生ら十数名の新米胸をとどろかしてずらりと巻藁の前に並ぶ。やがて現はれたるは丸顔の先生、手に色も鮮やかな紅の弓を持って小生等が前に立つ。教練の時に習った不動の姿勢は斯くの如き非常の場合に用ひんものと直ちに四肢を硬直させる。
 「エー、皆サン」と先生の弓に関するお話が始まる。弓の握り方引き方の基本的な事に就いて説明される。驚いたのは小生「コリャ大分勝手が違ふワイ」と思った時は既に三途の川を渡りたる後にて、この日より小生の弓道修行が始まった。
 来る日も来る日も、紅の弓に汗して巻藁に向ふ。単調な巻藁練習、然し単調であるだけに困難で苦しいのが巻藁練習であらう。正に小生地獄の赤鬼につかまへられたのである。三途の川を渡りてより日が経るにつれて赤鬼はその威をたくましうして来た。
 然し赤鬼はむしろ小生の心を内にひそんでいる事に気がつき、遂に赤鬼を退治するに成功、小生等共に入部せしもの一ヶ月半にして的に向って立つ事が出来る様になったのである。この頃になって弓といふものが好きになって来た。而して彼の先生こそ我が弓道部創立以来十有余年の長きに亘り只部のために尽して居られる我等が先輩前田師範であったのである。
 そして小生等と共に胸をときめかして巻藁に向ひし十数名の者も、一人去り二人去り、無事三途の川を再びシャバへと渡りたる者数しれず、嗚呼彼等は地獄の中にも春風の吹く桃源郷のある事を知らなかったのである。桃源郷これは弓が好きになって始めて達し得られる秘境である。木戸銭のいらないこの秘境に今集ふもの二十四名の部員、中るも八卦中らぬも八卦と云って居っちゃだめだ。中る八卦は「エンマサン」より得られる。然し「エンマサン」への地獄の道はスランプが谷等の幾多の障害物を備へているんだからたまらない。地獄に急行列車はないけれども、テクシーはあらう。寒いから暑いから、歩かれぬ等いって居らずに一歩一歩エンマサンの前までたえず歩いて行かう。かくして歩きつづける事三年、小生洛南のとある弓師の門を敲き、弓を購はんとした。弓師曰「アンタハ、トテモ六分ノ弓ハ引ケンヤロ」「チェッ、バカニシテヤガラ!」憤慨してみたものの、結局五分八厘の弓を小生購ふ。「エンマサン」への道は未だ遠い。これからはこの弓を杖にとぼとぼ歩く事にする。使って見て始めてこの弓俺の性に合ってやがらー、弓師のおっさんうまい事いったもんだと思ふ。この分ならばエンマサンに面会出来ずに地獄をオサラバしなくちゃならんのかと思ふ事もあるけれど、思ふにエンマサンは平行線が交わる彼方にあり、我々人間にては達し得られぬ所にある。我々弓の道に精進する者は相手が大物であり大物である以上それだけ張合が出て来ると云ふものだ。
 大東亜戦下の年の暮、火の気のない火鉢のそばで入部以来三年間の事を思ひつづけ、少しでも新春のシーズンに備へ反省しようと思ったが、凡平のはかなさ、思ひ出づるは唯弓の如何に難しきものなるかといふ事のみ。
 下らぬ事を長々とつらね、貴重な紙面を費やしてしまった。皆様の御目を汚したことを深謝します。



「弓道と私」/昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」創刊号/昭和44年

 弓に親しむ動機は、各人それぞれ異なった道を歩み、やみつきになった者、中断した者、又他のスポーツに入り年を取るに従って弓の良さを思い出し再び弓を手にする者、等々であります。
 私が弓の道に入った思い出と申しますと、商業学校時代柔道初段をいただき毎年八月武徳殿で全国青年柔道大会に出場して首の筋をいため、顔面神経痛を起し病院通いと、ヤイト、マッサージ等あらゆる手当をつくしましたが完全に治らず、今に至っても顔半分の神経は英敏に感じております。半治のまま立命館大学に入学しましたところ、その当時経済学博士、弓道範士の田島錦治先生が学長の座に居られ、法学博士、弓道範士跡部定治郎先生が法学部長で旧武徳会の幹部として、全国武道家に知られた両先生が居られたので、同志相計り立命館大学に弓道部創設を田島学長に御願い致しました処、思いがけなく鶴の一声で弓道部創設が決定したのです。師範に北垣守先生、名誉師範に小笠原清道先生を御迎えして弓道部の成立が出来あがり、入部したのが私の弓を始める第一歩であります。今から自分をかえりみまして、大変めぐまれた諸先生に見守られて弓を射始めたものと喜んでおります。大学を出て五段練士の時、跡部定治郎範士より京都帝国大学の弓道部の世話をする様に命ぜられましたが、自分は人に弓を指導するだけの自信がなく、やむをえず跡部先生の了解を得て小笠原清道先生に入門したのですが、月に一回跡部先生の道場に、週に一度は小笠原教場に通いましたが、小笠原先生は何一つ教えられない。唯二十射射ってそれを記録して帰るだけでしたので、困り、本を読んでは私の方から質問することにして質問すると、本を読んできましたね、その質問は今君が行射した結果の質問とは異ふ本を読んだな、と申された。本を書く先生がその通り行射しておれば良いが、本を書く技術と実射となかなか一致したのが少い。質問は君の実射から出せとさとされました。其后は本を読まず実射から質問をいだく事について質問する事に致しました。今から思ふと射は実芸であるので、読む者の技と心の境地によって誤りとられる事が多分にあります。修業の足らざる私に誤った解決をする事を恐れられた為であとうと思います。結局、事理一致の修行程度に応じて許される可きものでありまして、理に走る事が修行の妨げとなる。唯学問を覚え知るだけでは危険であり、自分のものとして行いに移して考へた時に活きた解決ができます。私は役所を停年退職して二年をすぎた時、自動車の運転免許を取る為に学校に行きました時校長の計らいで工業大学中退の先生を付けていただいたが、理論が先で実技が後からと云ふ指導法でしたが、実技に当って迷ひが出て落第ばかり。其后実技よりの先生に変えていただいた処、其先生は感と目の付け所、あとは腰に注意せられた処、人並に免許を許された事などを合せて反省して見て、事理一致の体得で精神の鍛錬、身体の習熟が伴なはなければ百害あって一利なしと思はれます。射の本質はやはり実芸に存するのでありまして、換言すれば射の射たる所以は現実に弓を射ると云ふことにあるのであって、単に頭の中で射を考えただけでは射の本質は見出されないのであります。
 実芸を重んじると云う事は、弓道にとっては欠くことの出来ないものであります。この行的精神こそ弓道の担って立つ根本精神と云ふことが出来るのであります。但し翻って考えますのに、この実芸は単なる盲目的衝動的行動であってはならないのであって、それには常に一定の自覚の下においてなされてのみ実芸がはじめて実芸たる真面目を発揮するとも云ふことが出来るのであります。弓道にても徒らに弓を射るのみでは所謂弓道の真髄にはふれ得ないと思います。射るだけでは弓道を正しく認識し得たと云ふことは出来ない、弓道を正しく認識する為には自覚と云ふことが何よりも大切であります。この自覚の為には弓道に対する知識の存在が必要となって来て、弓道の学問的研究即ち弓道学の必要の根拠が存在するのであります。
 弓道学の必要の根拠は以上の様でありますが、この点に就いては注意せなければならないのは学問的研究はどこまでも学問的研究であると云ふことであります。学問的研究はそのままでは実芸とはならない。ここに弓道の学問的研究の限界があるのでありまして、我々はこの限界を逸脱してはならないのであります。学問的研究はそれ自身において一つの意義を持つものでありますが、唯学問的研究のみを以って、弓道を終れりと思いますことは、弓道の根本精神である行的精神の破壊となります。故に弓道の要はこれを正しく知ることと同時に不断の練磨を重ねて、身に修得し得て始めてその本質を自証せなければなりません。凡そ学問的な研究には其の研究の対象が必要であります。弓道学の対象は何であるのか、先ず第一にこの対象は弓に関することであると云ふ事が考へられます。弓道学である以上、弓に関係ない事はその研究の対象にならない事は自明の理であります。但し弓に関することだと云ふても更に深く考えると、弓具商が弓を取り扱ふ事も弓に深い関係のある事ですが、これは品として取り扱って居るのであるから、これは商品を対象とする経済学其他の範囲に入れなければなりません。又我国には昔から梓巫女と云ふものがあります。これは梓弓を弾き神を降ろして神話を告げる巫女のことであり、これも弓とは関係があります。但しこの場合、弓を呪具として使用しているのであります。つまり宗教上の用具として弓を見ているのでありますから、これは宗教学その他の範囲に入れるべきであって弓道学の範囲に入れるべきではありません。弓に関係有るものの中から前ニ者と同様に解釈すべきものを次第に取り除いていくと終りに弓を現実に射ると云う実芸が弓道学の取り扱ふ範囲となります。この実芸を射実芸と云う故に弓道学の実芸は射実芸に関する知的作業でありまして、これは単なる知識ではなく、組織された体系でなければならないことは云うまでもありません。
 玄に申します弓道学は我国の弓道学でありますから、射実芸は我国の射実芸に限定すべきであります。云いかえますと、日本弓道学と申すべきです。今日我々が弓道と云えば通念として我国の弓道を指しているのでありますから、外国の射殊に中国の射は過去におきましては我国の射と重大な関係がありまして、我国の射が中国の影響を蒙っていることは特に思想的方面におきまして頗る重大な関係がありました。この意味におきまして外国の射は間接には問題になって来ますが為に勢ひ外国の射実芸に触れなければならない事になりますが、この場合は我国の射実芸を規準としたものでなければなりません。今回東京教育大学に弓道学科が新設され、主任教授に小笠原清信先召が担当せられます。今後の弓道界に益する所が多大であろうと思います。又社会人の弓道と学生弓道、すなわち教育の一環としての弓道は、おのずから区別され目標を定めるべきでなかろうかと考えます。なお、今後日本弓道を世界各国に広め国際的な弓道に発展させて国際的な試合を行い、弓道を通じ各国と親睦を計り、平和的な競技を行い、これに勝利の栄冠をもたらす為には、人間が本来持っている人間的成長力を開放する、この意味においてスポーツカウンセリングを導入せなければなりません。人間的成長を開発する為には常に孤独や技術の上での不安に悩まされることが多いものでありますが、何れにしてもカウンセリングによって解決される事が少なくありません。弓道は武道の中で静中動ありと云われる通り、表面的には安定しているようにみえるが、心の中に立ち入ってみれば、意外なほど弱い。私も未だに頭の中に残っている事は、私が五段練士の時、全国の練士の選手権試合の決勝に勝ち残り、一位ニ位三位決定戦に他の二人は四段練士で私一人が五段でありました。その時私の精神的動揺は五段である為に負けられないと云ふ気持ちなどから非常に圧迫感を感じ、とうとう三位に終りました。翌日小笠原教場に参りました処小笠原清道先生より大変しかられました。試合直前になって顔の色が青く変った、あれでは試合前既に精神的に負けている、精神の安定法に就いてさとされた事が未だに心の底に残っています。
 この競争と云う要を目指して、人間のもつ最高の能力を発揮するというわけは、可能性の追求が含まれている。その為には、選手はコンディションつくりに非常に神経を使うようになる。コンディションのよしあしが競争に大きく左右することを選手は平常から自分の考えや気持ちを整理したり、自分の感情をほぐすようにつとめる必要がおこってきます。つまり精神の安定集中、意志力の養成、基本体の基礎訓練等について、自分にあった創意工夫を行い、それらの点を達成しておくことが望ましい。
 人間の身体は非常に弱いようにみえますが、練磨によって非常に強いものになれるのです。と申しますのは、よく火事の時、平常持てないような重い物を持って出ると云う話を良く聞きますが、ああいう時には非常に力が出るといいますが、出るんじゃなくて実は人間にはそういう力があるのです。そういう驚異的な秘蔵力を持ちながら、人間と云うものは自分というものに自身を持たない。練磨鍛錬する時に人間の最大能力が生まれてくることを知らなければなりません。その能力は何によって発見されるか、それはやはり自信力によって生まれるのです。さらに弓道は極端ないいかたをすれば、自己実現の闘いであります。自分の才能を開発して他人の追従を許さぬ自己演技の創造をする争いであります。勝利者となるためには自分で自分を極限状況に追いこむ努力を積み重ね、色々と演技の方法を工夫し極限状況を日常的なものにしなければなりません。そのため、そこにゆくまでの間に、ある時は自分のみじめさを感じたり、ある時は心の弱さに悩まされることになり、まして自己観察、自己救済をはかるゆとりがない。そこでスポーツカウンセラーと云う専門家が必要となり、つまり選手が意欲を燃やしながら、極限状況に自らを追いこむ、そのための方法の創造ができるように方向づけを与えるのがスポーツカウンセラーの役割であります。前述しました通り、東京教育大学に弓道学科が新設され主任教授に弓馬礼法の宗家で心理学専門の小笠原清信先生が就任された事は弓界にとって喜ばしい事であります。非常に期待して止みません。



「弦声鳴和平而浩然養素」/末川博名誉総長/「鳴弦」第2号/昭和45年

 上加茂前道場の落成を祝って、当時の総長であられた末川博先生が弓道部に寄贈された漢文の大書です。(現在も道場正面に掲出)末川先生の弓道部に贈られた「弦の音が平和を広く知らしめて意気さかんにすべての根源を養う」の言葉は、我が部の宝ものです。


「弓と精神」/昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」第3号/昭和46年

 立命館大学弓道部監督と云う重責を、何を好んで自ら買って出たかと云う事です。当部は設立当初より弓界の実力者が三人も教授陣の内に居られたことが、私の学生時代の大きな力となり、卒業記念寄書に大弓道家となると云うことを書いていいるので大変びっくりしているのです。五十才で範士の称号を拝受し、六十四才にて九段に昇段しましたことはやはり母校の三教授・範士の影の力と御人柄にあこがれた点が多々あったと考えるのであります。今の弓界の私のポストから考えますと、立命館弓道部の御世話だけでなく全日本の弓界発展に努力しなければならないと云うことになりました。
 特に立命館弓道部員に訴えたいことは、スポーツは全て自分で体験することが必要であり、コーチや監督に依存心が強すぎると技術面・精神面でも全て監督の指導を得なければ行動が出来ないという依存心にかたまる結果となり独立性、創造性を失うこととなり、コーチや監督が試合中そばにおらなければ勝つことができないということに陥り易いことを身を以って知り得たことです。
 次に重心のおきかたと動作に必要な筋肉以外はクランクさせることの重要さである。ヘソの下、臍下丹田だけに気をこめることを基本的な構えとする。これにより重心を下げ、同時に、肩や腕の力を抜き、握りはやわらかすぎるぐらいにする。
 次に、重要なのは、練習の積み重ねによって自然とからだで覚えたものでなければ瞬間的なプレーはできないということ。自分自身の間で覚え、つまりタイミングを覚えること、教えられるよりも猛練習によって自分で会得する。敵と我とは相対的なもので、我あれば敵がある。従って我なければ敵もない道理である。いったい形あるものはみな相対的であるため自分の心がどうしても形というものにとらわれてしまう。その心のとらわれがまったくなくなり、自然と一体となるとき敵がなく、我なき自由自在の境地に達する。我は自然に同化するからである。勝負の場にのぞむには相手と争う前にまず自己との闘いがあり、自己との闘いにうちかった者は身心共に充分リラックス状態に落ち着くことが出来るから、自然修練した技術が百%発揮される。伝統の型に安住することでなく、既成の型よりもなまなましい現実の中に自らの型を作っていこうとする創造性こそ進歩の一つのポイントとなる。そのくふうと発見はとりもなおさず精神の安定・集中・意志力の養生・欲求不満の解決等につながってゆく。勝たなければならないと信じた時には必ず勝つという一つの自己暗示的な信念を得ることが必要である。又、トレーニングを行ふ場合、常に世死満畳の最悪のピンチが襲ってくるとの心構えで練習を積み重ねよ。

昭和九年度 九段範士


「My Life」 昭和55年度卒 伊藤正徳/「鳴弦」第11号/昭和54年

 僕にとって弓道は、まさに生活の一部だっていう気がする。たとえ授業に出席しなくても、クラブには必ず出席するし、一日中、メシ食って寝ている時以外は弓を引いている日だってある。大学に入ってからニ年間、果して勉強した時間と弓を引いた時間とどっちが多いかなって比べたら、絶対、弓の方が多いんだ。仕送りしてくれてる親に申し訳ないなって思う半面、なあに大半の学生っていう者は僕よりも勉強なんかしてないさって自分を肯定しちゃうんだ。
 こんな自分に自己嫌悪する時も、たまにはあるんだけどでもやっぱり弓を引いているんだ。だって弓ほど自己の能力を見つめられるスポーツなんてあんまりないんじゃないだろうか、おまけに下に「道」も付いていて武道の精神も磨けるなんて、やっぱり魅力的なんだ。精神を集中して、自分の体をコントロールして、その結果、思いどおりに矢が離れた時とか、悪戦苦闘して皆中なんか出した時なんかは「ああ、俺は自分に勝ったんだ。」っていう充実感と爽快感で一杯になる。こんな時、弓の魅力が実感として味わえるんだ。
 三回生ともなると試合の事なんかが頭にたって、自分の快感だけを追求できないけど、その代り、チームが勝った時の喜びは、一・ニ回生には味わえない。喜びと安堵感があるんだ。でも今んとこその快感は充分には味わえない試合内容だから、秋のリーグ戦が心配になって主将なんか、毎日苦虫を噛み潰したような顔で練習してる次第だ。一・ニ回生諸君、肝に命じておくのだぞっ。不調と練習の厳しさは比例するのだ。
 弓っていうのは、思うんだけど、つくづく妥協は禁物だ。「まあ、この位でいいだろう」っていう心のゆるみが危険なんだ。これは的中にも言えるんだけど、ニ回生が拾五・拾六で満足しちゃあいけないぞ。せめて拾七、八をコンスタントに中ててから大きな顔をしな。もちろん僕たち幹部は常に一射必中を目指しているし、うまくこの両者が噛み合えば、向う所敵無しの、昨年のような常勝立命になれるんだから。
 僕は不調が続いて、続いて、どうしても脱し切れなくて、試合の当日になっちゃって、どうしても中てる自信が持てない時、「立」で思いっきりねばるんだ。そうして、ねばってねばっているうちに、タイミングが合って中るわけなんだ。やっぱり弓は、一に根情、二に精神の集中力、三、四が無くて五に技量じゃないかなっ、特に学生弓道の場合は、僕たちの目標はあくまでもリーグ戦優勝なんだけど、それには全部員が一致団結して目標に向って行かないとだめなんだ。僕たちにとって目標のある事は、毎日の生活にハリが持てるって事なんだ。その分僕たちは他の学生なんかよりずうっと幸福なんだなって、時々思ったりする。みんなっ、ガンバロウゼ!



「手の内の形と働き、真の会と伸合いについて」 昭和9年度卒 三原平一郎/「鳴弦」第14号/昭和57年

 的中上重要な絶妙をなすものは、左手の内であり、若しこの手の内の内に欠陥があれば的中を得られるものでないから「よく手の内を吟味せよ」と言われる。されば弓の握り方について幾多の説法がある。曰く、鵜の首、呼立たり、傘の手の内、爪揃い等々まだ沢山唱えられてきている。しかもそのことごとくが、的中のために立案されている至妙論として全面的に支持され、今日でも無条件に遵奉されている状況で、そのいずれをとってよいのかわからない。私の弓の握り方を言うならば、弓を握るにあたり、親指と中指の二本で軽く握り、次に拳を小さくするため小指を初めに弓に添え、後に薬指の順に無心に添付した握り方をする。そうして親指の関節から先へは力味を加えぬようにして握る。要するに、本人が持って生まれた性能と多年に亘って鍛錬の結果、自得したる手法によってのみ実現するものと力説するに憚らない。
 会とは一般には矢束いっぱい引き取り、まだ発せずして保ちつつある間であると考えているようであるが、しかし真の会は、それから八方に伸合い結合ううちに生ずるものであって、つまり気力、体力が充実し心身を合一した発射の寸秒前を会の終りと言うのであろう。しかして会は鏡の如きもので、弓を引いて会に到ったときは、一切の偽りは許されない。心の動揺は直ちに会の鏡に映じ出される。良き引取りから良き会があり、充実せる会から良き離れが生じる。ただ引納めただけのものが真の会ではない。伸合い責合いの極が会であるが故に客観的には会があっても主観的には会はない・・・・・と言うように思いたいのである。この「会」という言葉は仏教の語から出たもので、生あるものは必ず滅し、会うものはいつかは離れる・・・・・ということで、押手が伸び右手が伸び、四方伸合えば一つのものになって相合うから「会」と言う。ただ引取っただけでは押手も勝手もまだ別々の働きである。伸合うてこそ縦横一本となるものであり、すなわちこれが真の会であって、弓の数秒時間の生命であるということを必ず心に銘じて行射すべきである。



「立命館弓道部、なんやかや」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第16号/昭和60年

 「鳴弦」の編集子から原稿の依頼を受けたのは八月末の事、暑い日が続いていた。どこかの国の元総理の様に、「ヨッシャ、、、、」と簡単に引き受けたのは良いが、暇なようで結構忙しく、毎日商売に、金策にたまにはカラオケで唄いに行ったりとかしている間に十月の声を聞き肌寒い日々になってしまった。やっと忙中閑有りの今日、水割りをなめ乍ら原稿用紙に向かった様な次第である。
 「先輩諸氏のプロフィール、思いつくまま」
 トップは何と云っても、三原御大、昨年が喜寿の御祝いだったから、私の現役時代は未だ四十八・九だったのだ。丁度今の私達の年代だ。それを思うと月日の経つ早さに驚いてしまう。先生はその自分から今と同じ様に髪の毛が薄かった。今も少しも変っておられない。一時、御身体をこわされて二ヶ月程、闘病生活をなされたとか、今は元気になられ、先日の関大戦でお目にかかった。昔は強い弓を引いておられて、関西では唯一人の八段範士だった。弓道界の名実共にトップクラス。昭和十八年、日本代表の満州派遣選手として中国に遠征。ちなみに同大の竹内監督もその時の選手団の一員。先生いつまでもお元気で。
 清水先輩
 かつての立命弓道部の猛将の一人。私がお願いにあがって、昭和三十年代の後半から永い間、我が部のコーチをしていただいた。二代目道場の建設に御尽力下さり道場開きの時も、非常にお世話になった。又たまには、新道場にもお越し下さい。
 春城先輩
 硬派揃いの立命館の中でも可成りのトップ級の硬派であったらしい。しかし学生時代に猛烈な恋愛をされて、その相手の女性が現在の奥様だから、軟派も可成りのものだったのだ。戦時中、御所の中をアベックで歩いたという猛者。戦前のOB諸氏とのパイプ役的な存在で有る。いつも何かと御世話様です。
 大林先輩
 戦争最中であまり弓は引いておられなかったそうだが、貴重な弓道部の資料を、進駐軍から隠して保存して戴いた。今道場に有る、蒙古弓、古い本箱、ペナント、部帳等々、全て大林先輩の御蔭で残っているものである。先輩、少し御無沙汰が過ぎます。御忙しいでしょうがコンパに出て来て、又、あのヨカチン節を聞かせて下さい。
 野崎先輩
 戦后、剣道・柔道・弓道等の旧武道系のクラブは全てGHQによって廃止されていた。その弓道部を事実上再興された方。その様な経緯だったかさだかでないが、応援団に席を置いておられたとか聞く。三原先生と共に弓道部復活に力を尽くされた由。現在、校友会評議員をなさっている。お宅も道場に比較的近いので一度御立ち寄り下さい。
 吉村先輩
 再出発した我が部の実質上の初代主将、大垣出身、法学部、三原学級優等生、第三回全日本優勝時の主将、落、固い人でした。今は大部軟らかくなられたが、兎に角、真面目な人。北村先輩共々、よく叱られたものです。吉村先輩、大垣は近いのです。もっと直々、京都に出て来て下さい。
 北村先輩
 京都堀川高校出身、経済学部、我が部の永い歴史上一番の強弓を引かれた方。勿論この人も三原学級優等生、二代目主将、全日本優勝時の大前、第四回全日本優勝射手賞受賞。真黒な塗弓と、その弦音は相手校を威圧するのに充分でした。麻雀、映画、お茶屋遊び、ガールフレンド等々の名コーチで随分いろんな所につれて行ってもらいました。私の青春時代、北村先輩の名前無しでは語れません。今は狂言を習っておられる由。北村先輩、今后共よろしく。
 田中先輩
 京都出身、文学部、御目にかかれなくて残念でしたが先のコンパに御出席されたとか、三代目主将、私と同期ですが、田中君の方が入部が少し早かった様です。お互いにニ回生、三回生の時は余り当たりませんでしたが、今でも高校弓道部の部長で弓の現役とは、羨ましい限りですね。追い出しコンパでは是非御目にかかりたいものです。
 村田先輩
 第五代主将、北海道出身、経済学部、皆さんよくご存知の村田君、彼も三原学級優等生。先生の理念、射技を一番よく受け継いでいる人で、等弓道部のコーチとしては最適。当たり本位の私とよく議論をたたかわしたものです。彼も吉村先輩と同じで固すぎます。もう少し軟らかくなるように。村田君、社長の北村さんを少し見習いなさい。
 中村部長
 広島出身、法学部、永い間行方不明でしたが、思いがけない所で私と再開し母校の教授をしている事を聞き、無理やり部長にあってもらいました。御所の済寧館時代、龍大の主将の小池氏と私と、バンカラ三人組でとおったものでした。中村君、どうか弓道部を、宜しく御願い致します。
 三原先輩
 御存知、三原先輩ジュニア、我が弓道部で唯一の二代目。髪の毛の薄い所なんか先生にそっくり、先生譲りの良い射をします。大病をしてから弓はほとんど御無沙汰、魚つりばかりしているのが先生の悩みとか。もう少し弓の方も思い出して下さい。
 最后に私
 京都出身、第四代主将、射型より的中だけを考え、試合に勝つ事だけを目的として来た男、三原学級劣等生。
 おまけとして、菅沼三慶師
 現役諸君のかけは、三慶師の作とか、非常に懐かしい名前ですのでここに書いておきます。昭和三十三年頃のある夕刻、御所の済寧館に一人のオッサンが現れました。その人曰く、私はかけ師です、かけを作らせてください。それが若かりし頃の三慶師でした。三十才位でしたろうか。私が第一号のお客だったと思います。当時北村先輩の白いかけに憧れて同じ様に白いかけを注文しました。六千円位でしたか。当時宇治に住んでいた三慶師の家にも何度か寄せてもらいました。その后、村田君、平井君等白いかけが流行しました。三慶さん、ええおじんになったやろなあ。
 以上数名の方々のお名前を出して想い出すままに書きましたが間違っている所はどうか御容赦の程を。現役諸君に特に御馴染みの人々に登場してもらいました。他にも多士済済名物男も大勢いますが又の機会にします。

 付録
 愛唱歌集
 コンパの席で北村先輩にいつも唄わされる数え歌、あまり年をとって忘れてしまわない内に書いておきますが、私達がよく唄った歌に、もう一つ「北上夜曲」と云うのが有ります。旧制の仙台ニ高の学生の愛唱歌で、旧制高校系の大学を通じて京都の学生にも愛唱されました。岡山の第二回目の合宿の時なんかよく唄ったものです。又全日の時、東北大学の諸君が上手にハモッていたのを思い出します。旧制高校生と女学生のロマンチックな初恋をうたったもので、后年、マヒナスターズと云う当時日本一のグループがレコーディングして爆発的な人気を得ました。ここに書くのはその元歌です。
 
 北上夜曲

一、雪のチラチラ降る夜は、語り明かした 
                          君と僕
  想い出すのは、想い出すのは北上河原の 
                          君と僕
ニ、星の流れを仰ぎつつ、語り明かした 
                          君と僕
  想い出すのは、想い出すのは北上河原の 
                          君と僕
三、香りゆかしき、白百合の、濡れている様な 
                          その瞳
  想い出すのは、想い出すのは 
                          可憐な乙女の初恋よ
 数え歌
 前述しましたが旧制の高校、大学にはそれぞれの愛唱歌や、数えが有ってそれが今まで種々な形で伝わっています。ここに書いておくのは、少なくても昭和二十年代から三十年代の数え歌です。現役諸君は、適当にアレンジして唄ってください。

 立命館数え歌

一つとせ
 一つ寝るのが淋しけりゃ、デカルトカントを抱いて寝よ、
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
二つとせ
 降りくる華を身に受けて、立つや立命の健男児
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
三つとせ
 見せてやりたやあの人に、立命生の胸の内
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
四つとせ
 淀の川よりなお清き、鴨の河原に月が出る
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
五つとせ
 意気は尊い血と燃えて、隣のナッチャンに惚れられた
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
六つとせ
 昔の武士に真実(マコト)有り、吾等に自由と自治が有る
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
七つとせ
 七つヶ丘はローマが府、立命館は吾等が府
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
八つとせ
 優しい心も無いじゃ無し、鴨の河原に月を見る
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
九つとせ
 故郷ははるばる出てきたが、今日もコンパに華が咲く
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
十とせ
 時は我等の登場待つ、立命館に栄有れ
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
終りとせ
 尾張名古屋は城で持つ、立命館は俺で持つ(又は意気で持つ)
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね

 大学数え歌(身内ネタのため、大学名は省略します)

一つとせ
 人は見かけによらぬもの、軟派はる奴は●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
二つとせ
 二目と見られぬおかめでも、窓から顔出す●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
三つとせ
 見れば見る程良い男、娘やるなら立命生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
四つとせ
 夜の夜中に戸をたたき、間男する奴は●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
五つとせ
 何時もお寺でアルバイト、小遣いかせぐ●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
六つとせ
 ムカムカする様ないやな奴、ウィンク上手な●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
七つとせ
 何も知らずに卒業して世に出て恥かく●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
八つとせ
 やさしい口調で口説くにも、英語口調の●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
九つとせ
 臭いタオルを顔に巻き、コエタゴかつぐ●大生
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね
十とせ
 とうとう出ました立命の栄え有る吾等弓道部
             そいつあ豪気だね そいつあ豪気だね

 やっとこれで今年の責を果たしました。伝統ある弓道部の健男女児諸君、光栄ある明日に向って、大いに健闘して下さい。 完。
 
 



「部章(バッジ)作成始末記」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第23号/平成3年

 「鳴弦」編集子より原稿依頼があったのは一ヶ月前だったが、原稿用紙二枚程との事何とか引き受けたのが間違いのもと、それからしばらくは、ある事情で原稿どころではない状態がしばらく続いていた。編集子からの再三の電話も家内が出ていれば御丁重に御断りをしていた筈が、何時も娘が出てしまい昨夜もまた娘が出て後ニ三日後に原稿を取りに来るとの話、こうなれば仕方がないと諦めてワープロに向っている次第である。
 もうニ三年前になるかリーグ戦を応援に行っての感想が二つ三つあった。
 その一つは、試合中、矢を外すと皆が「ドンマイで〜す」と言う。外しといてドンマイでもあるまいにと思っていたがこの事は村田君かだれかが注意し止めさせたらしい。結構な事である。
 もう一つは、試合後の反省会である。
 かなりの長時間全員正座の姿勢を強いられる。あれは苦痛以外の何者でもないとかねてから思っている。辛い事に耐えて精神的に強くなるもも結構。試合後の反省会はもう少し楽しくやったらどうだろう。軽く酒でもやりながら、酒が駄目ならお茶やジュースで。
 さて、閑話休題。
 ニ三年前、時の幹部の間で部章(バッジ)を再び造ろうとゆうことに成って小生も今迄のいきさつ上バッジ屋へ現役諸君と同道した事があった。その時は予算の関係で実現できなかったが。この度、故 三原先生のお陰であの懐かしい部章が再び現役諸君の襟にさんぜんと輝く事はわれわれOBにとっては非常に嬉しいことではある。
 

立命館大学体育会弓道部
部章(バッジ)
 
 昭和30年代我が部には部章という物がなかった。他の大学の弓道部には全て有ったと記憶している。昭和10年代から、或いは戦争(第二次世界大戦)中の部章はあるには有ったがそれもたった一つ、北村先輩の角帽の横に付いていた。長さ五センチ程の鏑矢の形をしたもので、「立命館大學體育會弓道部」と難しい漢字で書いて有ったと記憶して居る。テンプラ油や卵白でコテコテに固められたその角帽は、北村先輩より歴代の主将や主務が引き継いだ。高井良君も高須君も代々かぶっていたと思う。あの角帽は何処へ行ったのだろうか?
 当時御所の済寧館でバンカラ三羽烏と呼ばれた三人組がいた。中村部長(当時浪人中)と龍大主将の三池孝尚君(今、よみうりテレビの昼の番組で人生相談の回答者として、レギュラー出演している三池和尚)と小生の三人。私の角帽は四回生の夏休みその三池君の実家山口県へ遊びに行った帰途、国鉄山陽線の汽車のデッキから広島県下の何処かえ落してしまった。
 さて,話を元に戻そう。
 当弓道部もバッジを作ろうとゆうことになったのが昭和三四年小生が主将をしていた時の事である。当時副将をしていた足立君の御尊父が昔から弓をやっておられて、戦前の大会の記念バッジや参加章を沢山所持しておられるとゆう話を聞き早速拝借した。その中から選び出したのがこの度のバッジのオリジナルである。昔の武士は箙(えびら)に二四〜五本の征矢(そや)とニ・三本の上差矢を盛っていた。
 征矢は雑兵を射る為の矢で我々が今使っている様に矢羽根が三枚矧かれているが上差矢は開戦を告げる鏑矢や、敵将の首を射切る雁股の矢もそれに入り、矢羽根が四枚矧ぎになって居て矢が回転しない様になっている。その鏃(やじり)には夫々射手の銘が入っていたと言う。若し一軍の大将格が征矢に中って討ち死にしたとすればそれが軍記物に曰く「流れ矢に中って」という事になるのである。
 我が部の部章は、上差矢の鏃の形として最も美しい平根櫻透しをかたどって居る。
 桜の花びらが五枚の物と一枚の物とが有るが字をいれる都合で一枚の物にした。少し高くついたが、立命館と弓という字は純金メッキで仕上げた。一個二〇〇円位だったろうか一〇〇個作ったのを覚えて居る。裏には西暦と通し番号を打ち込んだ。
 小生はNO1を戴き今も大切にして居る。其のバッジを基に今回作製したとゆうわけである。この部章を何時までも愛して頂きたい。
 バッジのデザインをそのままワッペンにして立命館OBクラブとして、京都弓道界を席捲したのも今は昔の懐かしい想い出では有る。現役諸君は、新しい、然し歴史の有るバッジを胸に、関西、いや全日本の制覇を、祈りOB諸氏には今一度立命館クラブの活躍を夢見て拙文の終章」とする。
 



「弓矢取る身」 昭和33年度卒 幸田敏男/「鳴弦」第26号/平成6年

 (前略)
 さて、今回は何の話をしましょうか。入院中何冊かの本を読方みましたが特に、笹間良彦著・日本の甲冑武具辞典・柏書房、復元の日本史・合戦絵巻・武士の世界・毎日新聞社の二冊を面白く読みました。毎日何気なく持っている弓、世界に類を見ない日本の弓のルーツを辿ってみるのも面白いではないでしょうか?
 世界の弓は、大きく二つにわけられます。水平に引くものと、垂直に引くものです。前者はボウガンとかクロスボウ、あるいは、「弩」とか呼ばれるものであのウィリアム・テルが林檎の的を射った時に使用した物です。
 後者は、我々が使用する和弓も含めて洋弓もそうですし、道場の壁にかかっている蒙古弓もそうです。南方の民族の使用するのもこの範疇に入ると思われます。これら世界の弓は我々の和弓を除いて全て、天地或いは左右の真中に握りが有ります。又その形状も天地或いは左右対称です。和弓だけが下から三分の一の処に握りが在るのです。
 この事は、銅鐸の画や埴輪に見られるばかりではなく、あの「魏志倭人伝」に「倭人の弓は短下長上」と記されている事からも、少なくとも三世紀頃の弓は、今の和弓と同じ型であった事がわかります。
 何故、日本の弓だけがあのような形で、しかも握りが真ん中より下に有るのでしょうか。今後の研究によってこれらの理由づけは成されるかもしれませんが、恐らく永遠のなぞといえるでしょう。十六世紀、種子島に鉄砲が伝来する迄武士社会には、「弓矢取る身」「弓矢の誉れ」という言葉がありました。それが「槍一筋の家柄」、「槍先の巧名」というような形容詞に変ったのは弓矢が唯一の飛び道具ではなくなったからでしょうか。少なくとも鉄砲が日本全土に普及する迄は、西部劇でガンマンが必ずガンベルトを腰にして居る様に、武士は外出の時は必ず弓矢を携えていたものです。
 右腰に箙(えびら)を着け、左腰には太刀と脇差しを履き、箙には必ず弦巻が付いていてその弦巻は左の太刀の上にぶら下がる様にセットされていました。箙とは室町時代までは矢の正式の容器とされたもので、方立(ほうだて)という鏃(やじり)を差し込む箱と、その背面両端に取り付けた枠の端手(はたで)からなります。方立の中は簀(すのこ)状になっておりそれに鏃を差します。箙には通常ニ四〜六本の征矢(そや)と二本の上差矢(うわざしや)(鏑矢)を盛ります。
 端手には矢束ねの緒という紐が付いていてその紐で矢を一本ずつ絡めるわけです。矢がらみと言います。その絡め方は特殊な絡め方であって、戦場で矢を一本一本射て最後の一本になっても、グラグラになったり、矢が抜け落ちたりしないような手法になっていました。この絡め方は、龍大の元師範の故、那須先生がよく御存知でした。記録に出てくる鏃の形式は、雁股(かりまた)・大雁股・征矢尻・神頭・先細矢・鳥の舌・蝿の尾・鑿根(のみね)・楯割・鋒先・疾雁矢(とかりや)・細能身(ほそのみ)等々ありましたが、普通は征矢尻には楯の葉(まきのは)形が使われていました。戦記物や記録には、三十種以上の鏃の名前が出てきますが用途によっては使い分けたのでしょうか。それほど実用的とは思えません。征矢には今の我々が使用している矢と同じように三枚の矢羽が」はいであります。矢に回転を与えてまっすぐ飛ぶように出来ています。上差矢は、先に鏑(かぶら)が付いていて雁股の鏃です。矢羽も四枚はいであってこの矢は射た時も回転しません。矢羽は、鷲、鷹、鶴、鷺、山鳥等が用いられ鷹が最も上等とされていました。中でも尾羽の両脇の石打ちと称される二枚の羽が最上とされていました。当時いくら野鳥の羽が豊富にあったといえどもニ四本の矢の切り斑を揃えるのはかなり高価なものだったでしょう。一六世紀中頃に、日置弾正政次によって歩射射術の集大成が成されましたがそれが現代弓道の原形だといわれていますが、それ迄の射術法は現代とは大きく違います。甲冑を着た時は兜の吹返しというのが邪魔になって右手は耳迄引けません。胸も弦走韋(つるばしりのかわ)というのが貼ってありますが栴檀板(せんだんのいた)や鳩尾板(きゅうびのいた)という防御物がありますので弦を胸につけることができません。軍記物語などの弓射場面の記述は多少の誇張が含まれているとしても、現代人の技量とはかなりかけはなれていると思われます。これは、たとへば弓術伝書の「遠矢」に関する記述を見ても明らかです。「遠矢射様の事」という箇条には「町の準(ちょうのかね)」という項目があり、これは四町(約四三六メートル)に矢が達したら、矢羽の一部をはぎ取り、更にもう一度試みるといっています。最終的には矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて四町の距離を飛ばす事を目標としています。この様な練習をしていたからこそ三十三間堂の通し矢も出来たのでしょう。
 手薬煉をひくと云う喩えが有ります。準備おさおさ怠らずに相手を待つと云う意味ですが、次の矢を早く射るため弓返りしない様にくすねを付けると昔教えてもらった記憶があります。
 三十三間堂の堂射の場合は弓返りをささない射法だったと思いますが、普通の歩射の時はやはり弓返りはしています。このことはどんな合戦絵巻を見ても明らかです。手薬煉は弓を落さない様に滑り止め程度のようです。
 今回はこのへんにして、次回は三十三間堂の通し矢の事でも御話しましょうか。



「終はりなき弓の道」 監督 範士八段 中川慎之/「鳴弦」第30号/平成10年

 日本の武道が、他国に見られない精神文化として、世界に誇るべきものとなったのは、神、仏の聖なるものへの祈りによって、戦争にまといつく「ケガレ」を祓ひ清めながら発展してきたからにほかならないと思う。
 又、武道はスポーツとは違い、人生の戦いに処して自らの生き方と探求するものです。スポーツは一般に楽しみを求め、気晴らしを重とします。そうした聖なるものとは無縁となって発展していくのが特徴といえる。試合に勝てば両手をあげて飛び上がって喜び、負ければ意気消沈して畳に伏して泣する姿は見苦しい。
 私達はスポーツ競技の際にも精神性を求める。それは国民性の基底に、日本の民族性があるからではないだろうか?
 弓道人口は減っても本質は失わずに深めていく。そうすればそれを求めてやって来る人がいる。広まれば目標が希薄になってしまう。指導者は技術的な巧さだけではなく、人間的な深み、シブさがなければいけない。苦しい中でも何かを求めるという修練がなければ人間的なものは出て来ない。そこが武道とスポーツの違いと思われる。
 作られたルールに合わせていくのではなく、人間本来の姿、直実を求めて弓を引く。
 弓は相手がいません。自分自身との戦いです。しかし的を見ただけで気が昂ぶる。考える必要がないのに考えてしまう。人間の弱さです。それをどう克服していくか?
 終はりはないのが弓道であり武道です。


「原点に帰ろう」 /「鳴弦」第31号/平成11年

 立命館大学体育会弓道部は、昭和四年に当時学長であり、一流の経済学者であり、そして大日本武徳会弓道範士であった田島錦治先生の呼びかけのもと、学生有志数名が集まりおなじく大日本武徳会弓道範士であった跡部定次郎教授を部長とし、北垣守教授を初代師範におき、小笠原宗家であられた小笠原清道先生を戴いて創部されたのがその起源であり、以来、今年で七〇年の歴史を有している体育会クラブである。そしてその出来事は、三〇年の歳月をさかのぼりかの京都大学体育会弓道部成立の構成と酷似しているものでもある。
 弓道部の目的は、「立命館大学の弓道とは何か、そして、私とは何か」を日々の練習で絶えず問いかけ、稽古をし、試合でそれぞれの心身でこれを体現することであろう。そこには立命館大学、これに属する自分、へのあくなく思いと誇りを持ち、弓道を通じて他に具体化してみせ最高の評価を得たいという意味がある。まさにこの一点で、様々な価値観や意志を持つ部員全員の心をまとめることができるのであり、他に共通項はない。
 かけがえのない自分、その自分が属している立命館大学体育会弓道部に誇りを持つということが、弓道部員の心の原点である。誇りがあれば、目標が設定できる。目標を設定しこれに挑戦できれば、誇りがますます磨かれる。自分が、弓道部が、最高の評価を得るためにはどうすればよいか、をごく普通に自然に、誰もが思うことができる。まずは、それで良い。
 体育会は一方で高度な戦闘集団でもある。戦闘集団というものは、いかなる場合においても、共通の極めてシンプルで具体的な目標がある。それはその領域で最高の評価を得ることである。弓道部における目標というのは、「立命館大学の弓道、そして私」を自分たちの努力で他に認めさせること、である。究極の目標は当然、立命館が、そして私が日本一の評価を得ることである。日本一の評価と全日本での優勝とは意味が違う。全日本で優勝しても評価が得られないこともある。全日本で優勝できなくても評価が得られることもある。弓道に携わるものは、当然、良心を持たなければならない。良心が育てば、さまざまなことが自然とできるようになる。回生を問わず、体配・射技はもちろん、言葉づかい、道場・道場まわりの整備、矢道の草抜き、ものごとをプラスに考え乗り切る力、本当の友情、本当の愛情、本当の学力など。評価と言いうものは総合的なものでありそして人間的なものでもある。
 「誇り(目標設定)」と「良心(心構え)」、つまるところ弓道に限らずどのような場面でも人生にとって必要なことだが、果して十分か?現役部員は一人一人、その意味について考えて欲しい。もし、どうでもいいと思う人がいれば、かなり人間的にも厳しい状況であると思わなければならない。理解できる部員はその人を助けてあげなさい。理解できる部員が例えば一人であったとしても、安易な民主主義すなわち衆愚に染まらずに、全員に嫌われたとしても、正しいことを積み重ねよう。現役部員には一人もいないが、何かを忘れた、あるいは何かから逃げている「的中主義」や、「内容のない明るさ、お気楽」、「お友達づくり」はとうてい、立命館大学学生が目標とし口外できることではない。もっと大きな、でも人間として当たり前の目標を持とう。
 大切なことをもう一つ。現役学生が陥りやすい感覚のこと。弓道部は七〇年続いたが、しかしながら、これからも立命館学園が存在する限り、部員が一人でもいる限り、永久に存続するということ。今生きる人間は過去の誇りと良心に学び、将来の学生に誇りと良心を継承していかなければならない。制度のことを指すのではない。もっと人間として基本的なもの、本質的なもの、である。考えることをやめ、惰性でなんとなくする、または過去を否定しそれでいて将来構想も特にないといったようなことがあれば、将来の良心がこれを受け継いだと時、必ず回復させるまでに莫大な時間を消費する。それは今を生きている人の責任なのである。場合によっては二〇〜三〇年も「かかる」。緊張感を常に持って、良いことにはあくまで大胆なまでの改革を、「一期一会」でこれに臨め。それでいてちょうどいいのである。
 数百人におよぶ先輩方の過去と歴史を知り、良いところを取り入れて、自分の感覚で正面からこれを受けとめ、さらに良い部分を将来の良心につないでいこう。これが理解できるか。たとえ一人でもこれを理解し、少しでも実践できたなら、立命館大学体育会弓道部は安泰である。
 そして私も、誇りある立命館人として立命館大学体育会弓道部と共に生き続けていきたいと思う。


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