「弓道の基本」: 範士九段 立命館大学体育会弓道部監督 三原平一郎編著





「弓道の基本」 目 次

  1. 基本体 
  2. 静中動 
  3. 立体の姿勢 
  4. 姿勢の科学 
  5. 「骨の少ない所を鍛錬せよ」「腰椎を正しく据える」
  6. 正しく立つ姿勢とは 
  7. 基本動作 
  8. 美、省略、実用 
  9. 死気体、生気体 
  10. 虚体 
  11. 開き足 
  12. 基本動作の稽古 
  13. お辞儀 
  14. 立つ、座る 
  15. 歩く
  16. 巻藁射礼 指導者としての構え 
  17. 体配の稽古として見たる巻藁射礼の要点 
  18. 武と術
基本体
 武道において先づ第一に大切にするのは基本姿勢である。構えとか自然体とか、胴作り等ということはすべてこの基本体を指すのである。勿論外来スポーツにおいても当然基本のフォームは大切にするが、それは静的なものよりも動作に重点をおかれる。しかし武道では基本動作は正しい基本体が出来ていなければそれは出来ない。勿論外来スポーツでも究極は基本体であり、フォームのくづれは基本体の不自然が原因である事は多く見られる事実である。(打撃フォーム等)武道においてよく無構えの構えという事がいわれるが、これこそ本当の意味の基本体である。

静中動
 それは静中動の構えである。全身がリラックスされていながら、一分一厘の隙もなく、しかもすぐに動に転じられる事が要件となる。隙がないと云うことは、神経が身体のすみずみ迄ゆきとどいている事である。しかし不自然に作った構えは許されない。作った構えは、身体の部分に凝りを生じ、呼吸も不自然になる。静かな時はあくまで身心共におだやかなる静を要求する。それは常に構えの意識が表面に現れている姿ではない。静かにすんだ大海の如く、しかも一且急あれば怒涛と化す姿である。そこには少しの不自然さもない。自然そのものである。基本体とはあく迄、人間本来の構造上の自然でなければならない。この様に自然体とは作られたものではないが反面永年の悪癖によってゆがめられたものは、この癖を取りのぞく訓練も必要となろうし、又指導者は「本来の姿か」又は癖による凝った姿勢か見抜く眼力も必要となる。この静中動を基本として静中静、動中静、動中動も生かされてくる。

立体の姿勢
 立って歩くという事は人間の宿命である。生後一年位になると乳児は周囲の者を真似て立つ事、歩く事への努力が始まる。学習は模倣によって先づ始まるのである。そして三才位になると坐腰がしっかりしてくる。足腰と云う事は一般語として普及されているが大切な要点である。運動能力の発達は、上から下に中から外にの原則によって、最初は眼球運動から頭、首の運動、上体の運動、腕の運動と分化し、最後に足、腰、指先と分化する。この足、腰、指先に到達する事により、一応の段階に達するのである。立体の姿勢は、この足、腰、指先が大切な要点である。

姿勢の科学
 武道の言葉に腰眼という事がある。「腰は要に同じ」とある様に、要は物の急所であり、そして身体の要が腰である。腰眼と云うは「うしろごし」又「たよるべきもの」の意味で現代の科学で云えば、仙骨がかなめ石の渡目をしているのである。頭からの上体の体重を受けているのである脊柱は一番下の腰椎(五つある)から仙骨につながる。そのつなぎめのところで体重を受けている。これを古人は腰眼と称したのである。そしてこの腰眼を保護し、又大切な事を自覚せしめる為、袴の要板を考えたのである。脊柱と云うのは骨だけで云えば頚で前に曲り、胸で後ろへ曲り、又腰で前へ曲っている。その全体を通じた中心が結局の真直ぐである事が大切であり、その為には前彎後彎前彎という移行が滑らかでなければならない。この脊柱を全体を通じて中心が真直ぐあるように筋でおほって外形的な真直ぐな姿勢が出来あがっている。中心が真直ぐという事は、重い頭を頂上にして重心が直線的に股関節を通り、膝を通り、足底に達するように通ってこそ安定が保たれるわけで、この重心の線を指すのである。

「骨の少ない所を鍛錬せよ」「腰椎を正しく据える」
 昔から骨の少ない処を鍛錬せよと云う背柱を通して考えると胸骨におおわれている部分と腰椎の連なる仙骨、腸骨の部分を除くと頚と、この腰椎の部分が一番鍛えるべきヶ所だと云っている。要するに頚椎と腰椎は一番可動性に富んでいるので、この可動性に富んでいるところは筋肉がいつも緊張して支えていなければならないという事になる。特に腰椎の部分は、二本足で立つ為に、あらゆる力がそこにかけられている。しかもこの力は前に傾きそうな上体をいつも後ろから引張っていなければならない宿命がある。そして腹には内臓器官が入っているが、その前の腹壁が背柱の支持に強く関係している。この腰椎を支持する役と前の両方の筋肉を鍛えてゆく事が大切である。そして最も大切なのは、腰椎を正しく据える事に重点をおく事である。「体重を受けている仙骨この両側に腸骨がある。この仙骨と腸骨の間に仙腸関節がある。この関節を介して腸骨に伝え、腸骨から両側の股関節へ伝わる。すべての体重が両側の大腿骨の中心から膝の関節の真中を通り、足の関節の真中を通り、足底に至るのが正しい人体の力学的・生理的な状態である」この事は近年むちうち症等でも見られる様に痛める所は頚椎と腰椎である事でも知られよう。この腹筋を鍛える事は簡単であるが、この腰椎の背後をつつむ筋を鍛えると云う事は、余程意識的に行わないと難しい事で、この点、袴の腰板として常に日常生活においても注意を受けた古人の体験的な生活の智恵は科学的であると云える。(姿勢研究所、姿勢と生活(2)日本古来の姿勢参照)

正しく立つ姿勢とは
 足掌は平行にふむ事、そして頚椎及び腰椎を正しく据うる事である。古人の言葉に五体基の本を正せば未自ら正し、とあるがその本とは腰椎である。頚はあごを浮かさぬ様、襟のすかさぬ様、耳が肩に垂れる様、と教えている。宮本武蔵の五輪書に「兵法身なりの事と」「顔うつむかず、あおむかず、かたむかず、ふずまず・・・・・目の玉を動かさざる様にして、首はうしろの筋をらくに、うなじに力を入れ、肩より総身はひとしく覚え両肩をさげ背筋をろくに、尻を出さず・・・・・・・」と剣の構えを教えているがすべてに共通である。重心点は、正しい背柱にそうて前記の様に足底つちふまずにおちる事が大切で、足掌全体で支える事が力学的安定である。そして静かな呼吸が大切である。不自然な呼吸は体の部分を凝固させる。手は自然に垂れ指の開かぬ様注意する。意識を小指におく事も一つの手段であろう。

基本動作
 行動の稽古はそれが身につく為には、日常の的稽古が大切である。日常行動には「座る、立つ」「腰をかける、立つ」歩く、廻る、物を持つ、お辞儀をする、しゃがむ(蹲踞)等が考えられるが、すべて弓道にそのまま生かされる基本動作となる。そしてこれ等を正しく(筋肉運動的にも生理的にも)行なうことにより、正しい姿勢が訓練されてゆく。又逆に正しい姿勢でこれ等動作を行なうことにより、健康的に又楽しく、又実用的効果とにつらねる。「日本人が指先が器用だと云う事も、五・六才頃より、箸を持つ訓練を日常二度三度の食事に繰る」しているからであり、腰の強さも一つには便所での蹲踞の日常的繰る事にもある。ところが床に落ちた物を拾う時多くの日本人は膝を伸ばしたまま体を屈して拾う。これは体の前屈運動ともなろうが、重い物をこの姿勢で持ち上げると腰椎に響いてくる。案外外人は膝を屈し蹲踞して拾う姿が多い。これは機能的に有効な姿勢であり、又見た姿が美しい。すべての無駄を省いた効能的・実用的な動きが見えて美しいものである。

美、省略、実用
跪座
 すわっての爪立った姿勢である。両膝を床につけ爪立った姿勢である。この時、指先は出きるだけ身の内に屈する事が望ましい(九十度以内)として踵をつける事である。踵をあけると、尻が落ち膝にくる。踵をしめ、足掌を鋭角にきめると、上体が緊まる(諸跪座とか片跪座と云う事はない)物を持った時、物を持った方の膝を生かすのは、その物に魂を与える事である。エネルギーが物に迄流れ、物を機能的にする。従って踵の位置はそのまま揃え只、膝だけを少し上げる。よく見られる膝が踏み出た姿勢は、立て膝であって、多くの構えがくずれている。両方に物を持つ場合は主たる方の膝を生かすのであり、弓矢の場合は弓の方である。ある程度修練をへた者は、その物が生きているかいないかを見ぬく眼力が必要であり、又自己の場合常に物が生きている事が体で感じられるようでなければならない。世間で例えば開き足の時、弓をあげてから開くが等の質問も多いと聞くが、これこそ愚問であり、常に物が生きている為には、その体構えの動きによって徐々に物も体につれて動くのであり、静する時に物だけ上げられる事は体が死に又、物も死んでいる証拠である。

死気体、生気体
 心中に一張の弓を含んで一挙手一投足隙なく油断なく、しかも外見は自然に振舞える事こそ望まれるもので、いたずらに気張り、又誇張し、又見世物等と考えるのは舞台での芝居ごとであり、額縁の中の動きである。自然であるが、しかも威儀厳正、従容困難である事が望ましい。剛健も粗暴に流れては品位、風格の問題である。女子も容姿婉娩の中に淳然侵す事の出来ぬ品位が必要である。

虚体
 心のこもっていない動作は勿論虚体である。又形式にこだわっている姿も虚体である。然し、人間行動には同じ人間の体である故にある程度共通な動きがある。そして心ののった動き、物にのった考え、場に応じた構え等多くの人々の行動を通じて取り出されたものが型である。そして型は永い年月の間に磨きあげられている。然も武道は祖先が生命をかけて練りに練ったものの伝承である。従って現今の人が自分の仕事の合間に一寸作り出したものとは全く異なる。それは科学的に検討されて作られたものではないが、現今の科学の目をもってしても正しい事が多く証明されている。とかくその形も心がともなわなければ虚体となる。自己の体構え又持つ物や場に対して虚、実が体に感じられる修練が必要である。

開き足
 第一に廻ると云う気持、第二に腰の廻転、第三にそれにともなう足、特に廻るプロセスにおいて正面と廻るべき九十度との廻りきった正面のこの間常に隙なく動くにはどうしたらよいか、その間弓を持っているならばこの弓も死なぬ様にするにはどうしたらよいか。そう考える事が開き足を上達させる道である。形から云えば、膝に他の膝の倒面が正確に位置する事。そして他の足の移行に従って尻が伴ない廻り終わった時は正しい跪座の姿勢となって生きている事である。この時腰の位置は動きのどの過程にあっても生きている事が大切である。
楷書と草書、又真行草の事
身形真行草の本の事
第一真の身形正しくすべし
第二行の身形すなおになすべし
第三草の真形いかにも和にすべし
分かれば三と成り合すれば一つなり。三つ一つと心得べし。唯そこそこに目をくばり、浮沈有こそよってけれ元の身にして常に変わらず。
世間で真行草を誤解している向が多い。楷書と云う事は一格一格正しく行なう事であり、その楷書がしっかり身についた時、場に応じた行動が行なえる様になる。それを社交の場において楷書で行動すればそれは不自然な行動となる事当然である。
基本動作においても、その動作が一つの流れとして行なえる為に、その修得方法として一格一格を正しく稽古するのであって、礼射をも行なえる様な位置の人が動きだけ基本動作の初歩的稽古法を行なう事は不自然である。少くも礼射を行なう為には基本動作をこなしてから行なう事が必要である。基本動作の稽古のプロセスは基本動作の発達段階として見るべきであろう。少くも初段の標準と云うのは基本動作が一応出来た段階である。それ以上は深みと巾を増す段階である。

基本動作の稽古
 生気体である為には、動作と呼吸の協応が必要である。稽古においては例えば歩く時、吸う息一歩呼く息一歩。吸う息二歩、呼く息二歩と云う様に、又呼吸に動作を合せる稽古動作に呼吸へ合せる稽古が望まれる。又、お辞儀でも吸う息で体を屈し、呼く息だけ滞り、又吸う息で体をおこす等、色々稽古法が考えられる。呼吸の問題になると八節と呼吸・離れと呼吸等の事にふれるが、先ず日常的な動作と呼吸の協応から始めるべきである。呼吸も昔より禅寺でも大きな修練が必要であった様に、簡単な机上で論ぜられるものではない。事実弓道の筋電図と呼吸の研究で見ると離れにおいては高段者は吸ってはなす人、はいてはなす人共に居り、又その人の言葉と呼吸が反対であった場合も実験で示されている。又平常呼吸が八節の過程でも維持できている人はきれいな弓であるが平盤な力のない弓であった。この意味で呼吸のアクセントと力の問題等も一つの課題になろう。

お辞儀
 お辞儀は自己の誠を相手に捧げる事である。その心の形として屈体の礼がある。屈体は低頭ではない。又屈体は万国共通であり、人間の恭敬愛の自然の心の表現である。屈体で最も大切な事は背すじを正しく伸ばす事であり、前記の可動性の多い処を正しく維持して屈する事である。従って頭を胴に正しく据えている事が大切で、この体の屈身にそって手は自然な位置にある事が大切である。手を先に決めると云う事は自己の心を手に意識する事で誠を捧げる事ではない。よく武道で手は左から右に据える等と教えるが構え意識は相手への敬意ではない。この様な初歩的な事は流儀礼法と称して裏付けの理論なく肯定否定する事は問題であろう。古きものには確かに良さがある。この良さは深い理論の裏付けである。この裏付けの理論をよく研究して行なうべきで、自分勝手な解釈は事実を曲げる。相手に構える事とお辞儀等は全く逆であり、どんな場合でも表に構えを現わさず、しかし生気体として侵す事の出来ぬ風格がお辞儀に要求される。無構えでも構えは風格として生き、それが品であり、昔の人の云う色である(至って無味なるものなり)

立つ、座る
 前記自然体の骨法に背かず、立つ至る事で胴体はリラックス、呼吸平動、しかも胴作り正しく立ち、座る。そしてこの要は腰眼である。反動で立つのではなく、自己の力、内部のエネルギーを有効に使って空に煙の立ちのぼるように立つ。そこに無駄な力がなく、しかもその道程、どこで停っても構えが生きている事が大切である。形から云えば、立つ時、腰に伴なって、足から踏み出してゆく。そして踏み出した足は他の膝より前に出ず、この時、腰の位置も構えとして生きている事が大切である。よく足だけ踏み出し、腰が落ちたままで居る人が見かけられるが、片足踏み出した時の体構えさえ解らぬ事は問題であろう。この動作の稽古として一単、腰をきり(腰を伸ばし)として踏み出す稽古をするが、これは立つと云う動作の稽古法であって、腰と足が伴なう様になってから礼射に入るべきで、云えば八節を知らずして弓を射るに似たものである。

歩く
 人一年で歩く事を知るが、自然に覚えた歩くと云う事は正しさを考えると各個人色々欠点を持つ。それは正しい姿勢を失っている事に原因する。先ず正しい歩行は正しい姿勢である。そして歩くと云う事は、後ろの足を前に出す事で、前の足で引きずる事ではない。玉乗りの如く前に力を入れれば球は回転して落ちてしまうあの骨(こつ)である。そして足底は平行に踏む事。一般に普通の歩む足は一間を三歩半(女子は四歩半一呼一足一吸一足である)。

巻藁射礼 指導者としての構え
 射行射法の稽古としてこの基本動作の稽古の生きるのは巻藁射礼と連盟の一つ的廻射礼である。これは基本動作が身についていなくては猿真似になり、又第三者が見ても一目してその稽古の段階がわかる。一つ的は気合が合う為には基本動作が身についている事が必要であり、又呼吸も大切である。
一、袖口を袴にはさみ、袖をももだちの中に入れる。
  袖をはさむのは、ひもの上からでも、下からでもよく、その様な意味の薄い点のみにこだわる人に体配の乱れが多い。
一、次に弓を左に移す(口伝)
  弓を斜め横にし、握りをとって弦をかえす場合、円相にして且つ清眼の構えが必要である。それは腰の伸びと腰からの構えとが弓を生かすのである。この両足は左膝がいきる事により弓は更に生気が入る。
一、矢を腰にとる。
  この様な小さな動きは軽くなり勝ちである。矢を握る手に気合を入れるべきで、この小指からの把握を強くしながら、右手の小指を更にしめ、そのしめた小指を腰にきめると云う事が要となる。しかし意識は左の小指にある。すべての動きは無駄を省く事が第一であり、最短距離においてこの気合が充実する。抑揚をとりまわす道をするのは芝居振りであり、きざである。武は生きている。
一、矢つがえ
  跪座の腰は不動である。特に大切なのは右手弓に達した時、腰が浮き勝ちになる。正しく右拳が左拳をこえ、人差指と中指の間にはさむ。肘、腰不同なりと考え、稽古をつむ事肝要(口伝)
一、乙矢をはさむ。
  正しく平行出来得れば指も正しく、揃った方が美しい。

体配の稽古として見たる巻藁射礼の要点
一、先ず巻藁に対した時の構えである。
  立つ巻藁に対して自己は跪座になる。従って巻藁をのむ心が大切である。「機を呑み、物に乗る心は吉なり」とするか、巻藁に対し一体となり自己の巾を広げる事である。その為には場一ぱい広がる心と体が要求される。
一、揖
  巻藁をおしてゆく気合である。
一、開き足
  一方巻藁を気合で押さえ、自分は巻藁に対して正面となるのであるから片身で巻藁を押さえて正面では場を締める気合が必要である。この時右膝が生き弓と共に生気体である事が大切である。
一、肌を抜く
  手を懐中にし腰からの構えで袖の先に親指を添え、小指を締めて小指から押し出してゆく。袖口に達したならば、親指を除く四指で袖口をおさえ、腰より延びる気合で袖口を伸ばす。これによって真中をくつろげるのである。この時、眼は袖口にある。次に肘の位置をそのまま袖口を見つめつつ拳を斜め四十五度の方向に伸ばし衣服の前をくつろげる。静かに顔を正面に戻し、次いで左手を懐中にして肌を抜く。この肌ぬぎの時、最も悪い事は、拳を中にして肘から前に出してぬぐ事で、これは江戸では「けんか抜ぎ」と云い品がない。手掌を襟の中にそい肘は体にそう様に横斜下に抜いでゆく。
一、三つ指で持ち立つ
  原則的に云えば巻藁が上座とすれば、下座の足右足であるが、もし右足で立つならば左足の膝をつく。気合で右足をつき腰を切りつつ立つ呼吸が必要になる。左足で立つならば、生かした膝は床につく事なく、そのまま腰をきる構えに応じて踏み出しつつ立つのである。註 世間で一単膝を揃えてとあるが、膝は立て膝ではなく、既に揃っているので物が死なぬ様生かした姿で立てばよい。これは流儀でも何でもなく、体構え誤っているから前にすべる様にして揃えるのである。立て膝は隙のある構えで不可、これは楷書でもなく、構えのすぐれである。
一、足ふみ
  的をしっかり見て、左の親指を的中心にきめ、足ぶみをする。この時膝がゆるむのは構えの隙である。特に左膝のゆるむ事は武射として許し得ぬ事で礼射又同様である。
一、物見て静に正面に戻す。
  この様な簡単な技こそ大切にすべきで、広い場の中に自分を据え真中真中と心得る事である。取り懸も胴作りゆるがぬ様正しく気合をもって行なう。小指が大切である。
一、巻藁は的ではない。
  いわばあづちである。従って巻藁の中に自己が心に甲矢乙矢の的を描くのである。そしてその的にねらいを正しくつけるのである。
一、弓倒し
  射倒し、物見を正面に渡す、すべて残身であり残心である。巻藁での射倒しは直ぐそばに相手が自己に向って構えていると知ってそれを体より気合で左拳で押える様に腰にきめるのである。その時眼は鋭く巻藁にある。そして弓は刀物の如く左けさがけの如く未弾は正しく体正面床上三寸にピタリとおさまる様静かに充実した気分のもとにおさめるのである。弓が生きているかいなか。体が生きているか、いないか、弓倒しの際に最も強く示される。そして両腕の正しい伸びが正しい射倒しに誘導する。
 以上の如く一挙手一投足、線でなくすべての過程における点が生きている様に行なってこそ巻藁射礼は生きてくるのであり、又これが射行、射法、射術の研究となってゆくのである。
  
武と術
 武道と云う言葉は徳川期しばしば用いられているが、弓道とか剣道とか柔道と云う風にそれぞれ道をつけたのは近代国家制立以降で百年にも満たぬ歴史である。武道も一面武芸武術等と並称されていたが、この関連性と意義において大きな問題が内在している。武道等と称した場合は武士道にも関連させ、その精神的意義が少なくないが武芸、武術と称した時は、その術自体が強く浮び出ている。今日の弓道、柔道、剣道はそれに比してどの様な意味を内在せしめているであろうか。
これが道と称するようになったのは、徳川時代は武士は指導者の教養として弓馬をはじめ槍剣と総合的に学んでいたのである。そしてそれぞれの術を稽古をし、又稽古を積む事により次第に武士としての心構えを獲得して行ったのである。そしてこれ等を総合した。弓道等は既に徳川の初期その実用的価値を失ない、又剣も平和な時代にあっては武士の威儀を外形的につくろう飾りでもあった。しかし反面その内在していた実用的価値は武士の魂として心を引き締め、又慎みと嗜をもつ指導者としての武士階級を精神的にも肉体的にも維持させていたのである。しかしこれが武士社会の崩壊近代国家の制立と共に総合的なたしなみの必修的鍛錬の時代と離れ、自己の希望による譲意的種目としての位置づけに変って来たのである。この混乱期に明治初年技刀隊の刺激による警察剣道はわずかに武道としての総合的な考え方を実生活に生かす意味で伝えていたと云える。
しかし、この時代平行的に学生間に撃剣が普及した。これは武士階級の人達が新しい時代の欧化普及に対し何かものたりなさを感じ、撃剣を通じて人間性に魂を入れる教育の具にしようと考えたのである。この学生剣道は総合武道としてでなく、剣術のみの稽古から道への導入を考え、これが剣道への表現への転換となったと考えられる。
柔道においても類似したことが見られる。嘉納治五郎氏が柔道と称した事は新しい時代に体育的意義においてこれを据え欧米國の体育に写し、日本人の体育としてとり挙げようとした事にあった。これが逆に関節わざや当て身をはずし人為的なルールによってせばめた技の中で、自己を磨く方法を打ち出し、この教育的意義を柔術より柔道に考え方を発展せしめたのである。
弓道においても又同様であり、現在古い伝統をほこる大学では今でも弓術部と云う呼称を使っている学校も多い。しかしやはり弓のみを以て修行する人達に武道的心を与え、これを教育的意義からみつめる事を呼称して弓道と称する様になったと考えられる。
この術か道かの論議はその場における指導者の考え方、指導方針によっていづれでも意味づけられるものであって、何も道でなければならぬと云う事ではないと考えられる。古来から弓馬槍剣と云うが、古くより伝承された馬術は今でも馬道ではない。又水泳も同様であり水道ではない。現今盛に行なわれているものでもこの通りである。現在自分の教場でも明治以降一般に解放されるようになってから、弓馬術礼法小笠原教場であり、それは術を指導する教場である。そしてそれは術において鍛錬に鍛錬を重ねた時、それは人間の道を歩む事になり道は、自己が歩むもので他人が指図するものではない。しかしそれは指導者の考え方、指導方針が正しければ術の鍛錬によって自分で道が開拓出来又正しい道を歩み得るとの考え方である。同時にその考え方と云う事は、自然の道、人の道に背かぬ大前提がある。その大前提と究極の目標は一致する。
 なかなかに 里近くこそなりにけり 余りに山の奥をたづねて
道は近きにあり、遠くに望むべからず。又自己の目標を遠くに求め、高きに昇る心境で稽古をすすめる事にある。道はあくまで自己自らの練成であり、教えるものではないと云う事を第一に考え又術より道に入るにはあく迄実生活に生かす事が必要である。水泳においても近い距離を早く泳ぐ練習より、沼にまかれた時脱する方法、急流をのりきる方法、遠い距離を長い時間泳ぐ事、ふか等におそわれた時脱する方法こそ今必要な実生活への力であり、この日本に伝わる水練こそ小学生に必要である。
この様な考え方をもって今日の武道を考えた時自己自ら行なう自己練成、自己の能力を増す稽古と考えて行なう事こそ今日に生きる武術であり武道と考えるのである。要するに武道と云い、武術と云う道とか術は、その指導者の考え方により教育的意義が附加されるものと考えられる。


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